デザインと言語化

2024年6月26日

言語化が流行している

デザインの界隈で”言語化”が流行している。

雑誌『Web Designing(マイナビ出版)』で特集が組まれ、『デザインの言語化(左右社)』という書籍も出版され、SNSやブログでも多く言及されている。

(本稿はデザインの”言語化”について、思いつくままに書いているため、話題があっちこっちに飛びます。)

”言語化”流行の背景には、デザイナーが自身のデザインについて説明を求められる機会が増えていることがあるのだろう。この20年でデジタルデザインが隆盛し、デザインの仕事はより分業化/組織化が進んだ。1つのプロダクトに多くのデザイナーが関わり、その周りには多くのディレクターやエンジニア、プロダクトマネージャーやマーケターが関わる。昔であればアートディレクターがデザイナーを代弁しクライアントに説明すればよかったのかもしれないが、今は個々のデザイナーが多様な職種の関係者にデザインを説明する必要にせまられている。

またデザインが組織化することで、先輩が後輩へ教育する場面も増えているのかもしれない。何かを教えるということは、言葉にするということ。まさに言語化である。(昔ながらの背中で語る教育もあるかもしれないが。)

こういったデザインをめぐる環境の変化が、”言語化”流行の背景にあるのではないだろうか。

クライアントにデザインを説明するとき

クライアントにデザインを説明する際の言語化とは何を意味するのだろうか。下位のレイヤーにおいてそれは、個別の色や形や書体(以下造形と略す)を選択した理由を機能から言葉にすることだ。例えば「食欲を喚起するために暖色を」「シャープな印象を与えるために鋭角な形状を選んだ」など造形が持つイメージや機能の説明である。少し上位のレイヤーでは、同じく造形について、それらがもつ歴史や社会的文脈に踏み込んだ説明が考えられる。例としては、「未来を構想するプロジェクトであるからSFで多用されるFuturaを選んだ」「アイルランドのケルト文化の紋様から形を持ってくることで自然に対する畏怖を表現している」など。僕はさらに上位の言語化に、デザインの物語化があると考えているのだがその説明は本稿後半に置いておく。

なお、本稿では主に二次元媒体のデザインについて語っているが、その中でもデジタルプロダクトになると上記とは別にUIデザインの機能に関する説明(タップ回数を減らすことで利便性を上げる、など)が膨大に必要になるのだが本稿においてそれは主題としない。

他者のデザインにフィードバックするとき

前述した通り、言語化はクライアントに対してだけでなく、後輩や部下に向けて必要になることもある。その場合においても基本的には対クライアントと同じで、造形の持つ機能やイメージ、歴史や社会的文脈、物語化によって説明が必要とされる。ただ、クライアントに対して説明するときと違うのは、後輩にフィードバックする際は、よりシンプルにビジュアル制作の巧拙について言語化する場面が多くなる。未成熟な後輩が作るデザインはビジュアルとして一定レベルに達していないことも多々あり、機能や社会的文脈以前の問題として、絵としての魅力のなさや情報整理が及第点を超えるよう指導することに苦労することも多い。

逆に言うと、ある程度経験を積んだデザイナーであれば当たり前にできることについては、クライアントにあえて説明することはしない。「文章の読みやすさを確保するため行間を175%にした」「大小の形状を組み合わせることで紙面に動きを出した」などは、デザインの言語化において最も低いレイヤーの話であり、わざわざ言葉にする必要はない。もちろん場合によってはそういった説明が必要になる場面もあるのだが、あくまでそれはプレゼンテーションの脇役であり、主役にはなり得ない。もしプレゼンテーションの内容がそのレイヤーの話に終始しているとしたら、そのデザインはレベルの低いものかもしれない。

言葉にすることでこぼれ落ちるもの

ここまで”言語化”についてつらつらと書いてきたが、大前提として「言葉は現実よりも低解像度」であることを忘れてはいけない。例えば目の前にポストがあったとして、その色を説明するのに「赤」と言ったとする。単純に赤と言っても「鮮やかな赤/落ち着いた赤/朱色/サーモンレッド」無数の赤がある。また、艶があるかマットであるかなど質感によっても色の印象は違う。さらにはどんな場面や心情でポストを見たかで主観的に感じる色の印象も変わってくる。そして厄介なことにこれら全てを説明したとしても、相手の頭の中に全く同じ赤が浮かぶことはないのである。言語化とは現実を言葉という記号で言い換える行為であり、記号化とは文脈を剥ぎ取る単純化であるのだから、言語化することは現実の持つ複雑さや豊かさの伝達を諦めることにつながる。それを代償に効率的な情報伝達を可能にしているのである。

確かに言語化が重要視されていることはわかるし、その必要性も理解できる。けれども言葉にすることで切り捨てられることが多くあることも常に意識しておくべきなのだ。

「言葉は思考」

“言語化”をしようと意識するとつい難しい言葉や流行り言葉を使いたくなる。専門用語や業界用語を使うと、なんとなく難しいことを言えている気がするから、ついつい使ってしまう。けれども僕はなるべくそういった言葉は使いたくないと思っている。まず、難しい言葉は相手にとっても難しいのだから、お互いにとって難しければそもそも正しいことが伝わらない可能性も高くなってしまう。だからこそせめて自分自身の側は理解できている言葉を使うことが大切なのだ。

また、コミュニケーションの場面でなく、自分一人で何かを考えるときだって言葉を使って考えている。そこで無闇に理解の浅い言葉を使って考えたら、思考そのものが浅いものになってしまう。難しい言葉を使って考えた気になるよりも、平易な言葉を使って考え続ける方がよっぽど思考が深まるはずだ。このことを考えるときにいつも思い出す映画がある。リチャード・エア監督の『アイリス』という映画だ。作家である主人公が「言葉は思考」と語るシーンがあり、そんな彼女がアルツハイマーとなって言葉を忘れていく映画なのだが、とにかく「言葉は思考」という台詞が印象に残っていて映画を観て以来、言葉を大切にするのはそれが思考と繋がっているからだと、ずっと思い続けている。

言語化は批評

この世の中には”批評”と呼ばれる文章がある。高いレイヤーにおけるデザインの”言語化”とはこの”批評”とほとんど同義だと、僕は思っている。

批評とは何かについて厳密に考えるとそれだけで長い文章になってしまうので、ここでは簡単に批評を捉えることにする。(批評についてはまた別の記事で詳しく書く(つもり)。)

批評と言うと単純に”批判”と思う人もいるかもしれない。批評を英訳すれば”Criticism”となり、”Criticism”は和訳すれば”批判”の意味になるのでそれはそれで正しい認識だと思う。また”批評”は”評論”と一括りにされることも多い。評論とは文化や社会事象などについて、その是非や意味を論じるものである。しかし、本稿で想定している”批評”とは批判とも”評論”とも違っている。”批評”には確かに多くの場合批評する対象が存在する。その点においては”評論”と近く見えるかもしれないし、多くの場合においてその対象を批判的に検証することが必要とされる。しかし、“批評”の場合は対象を批判的/肯定的に両面から検証した上で、その中から最も重要な点、(この言葉はあまり使いたくないが)”本質”のようなものを定め、そこからそれを語るための物語を立ち上げるのである。ここで本稿の中盤で登場した”物語化”というキーワードが再び登場した。そして物語化と並んで重要な点は「”本質”のようなものを定め」ているところだ。「”本質”のようなものを見つける」のではなく「定める」のである。批評において、その対象について誰がみてもわかる本質を語ってもなかなか面白くならない。コップの本質を「液体を掬えること」ではなく、例えば「固体も掬える」ところにあえて定めるのである。ストレートに対象を見るだけではなく、あえて別の角度から見てそれでいて本質的なことを見つけることで、オリジナリティのある物語を立ち上げることが可能になる。

この「対象を独自の視点から見定め、本質を捉え、そこから物語を立ち上げる」という行為。これはほとんどそのままデザインの過程と同じである。デザインにおいてもその対象を詳しく検討し、その中から本質を探す。探すのだが誰が見てもわかるようなことだけを見ていても独自のデザインは作れない。検討する中で、視点をずらすことで別の角度から本質が見えてくる。それを造形にする。そしてその過程をプレゼンテーションすれば、自ずと物語が立ち上がる。物語とは別に主人公が出てくるわけでも、悲劇が起こるわけでもない。デザインする対象から独自の観点で本質を定め、そこから造形が生まれてくる過程を説明すれば、それは物語のようなものになるのである。これが僕の考える、「上位のレイヤーで”言語化”が起こる」様である。

デザインの”言語化”に必要な勉強

長々と書いてきたが、要点をまとめると以下のようになる。

デザインにおける言語化とは低いレイヤーから「1. 造形の上手い下手の説明」「2. 造形が持つ機能やイメージについての説明」「3. 造形の社会的文脈に沿った説明」「4. 対象の本質をつかみ造形化する中で立ち上がる物語」と言う4つのレイヤーがある。

最後に、4つのレイヤーにおける”言語化”を習得するためにはどんなことを学んだら良いのだろう?まず「1. 造形の上手い下手の説明」についてはシンプルに造形の扱いが上手くなるような勉強が必要である。「2. 造形が持つ機能やイメージについての説明」についてはどんな造形があると人はどんなことを感じるかを勉強したら良い。デザインの勉強と聞いて多くの人が想像するのはこのレイヤーの勉強かもしれない。「3. 造形の社会的文脈に沿った説明」のためにはより広く社会や歴史と造形の関係を学ぶ必要があるだろう。そして「4. 対象の本質をつかみ造形化する中で立ち上がる物語化」について。これは前述した通り”批評”と類似した行為であるため、多くの批評文を読むことで鍛錬できるのではないかと僕は考えている。

以上、とっ散らかった文章の末に、デザインと批評(デザイン批評とは全く関係ない)というキーワードにたどり着いた。本稿の続編としていずれデザインと批評について、より突っ込んだ文章を書きたいと思っている。(書けるといいな)

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