私たちのこと
しなやかデザインについて
はじめまして。しなやかデザインです。私たちはウェブ、VI/ロゴ、グラフィックを制作するデザイン事務所です。また、それらのデザインに加え、企業やプロジェクトに長期的に関わり、そのブランド価値や魅力をともに考えるような仕事もしています。
東京・清澄白河のデザイン事務所
僕はジャンルを問わず本を読む。小説、社会時評、スポーツドキュメント、デザイン論、等々、わりと広い範囲のものを読むのが好きだ。そういったジャンルの1つに「批評」と呼ばれるものがあり、それらを読んでいると、ぼんやりとだが「批評」の「手つき」みたいなものが見えてくる。そして、自分がデザインを考えていると、その中での「情報の読み込み方」やその「手つき」が「批評」っぽいなあと思うことがある。
デザインの対象となる会社や商品について聞き、調べ、考えていると、まるで批評のためにその対象を読み込んでいるような気分になり、デザインの対象について知るために、正面から見て、後ろから調べ、ひっくり返して裏側から眺めてみてとしていると、まるで批評的な「手つき」だなと感じる。また鑑賞者としても、デザインを見る際に、優れたデザインは高次な視点から捉えデザインされているため、面白い批評を読むような気持ちよさがある。
本を読むときのスタンスとして「この本を読むと○○の役に立つ」みたいな読み方はあまり好きではない。しかし過去に「批評」の本を読んできたことが自分のデザインに影響を与え、「結果的」に役に立ってしまっていると、感じるときがある。
ところで、「批評」とは何か。そもそも現代ではネットにレビューが溢れるため「批評」がなくても情報としては事足りてしまっている。またエコーチェンバーに囲まれ皆が自分の好きなものを論じている中では「批判」は嫌われる。「レビュー」と「批評」は違うし、「批判」と「批評」も全く別のものだが、ひとまとめにされて嫌われてしまっているむきがある。
一般的に辞書的な意味での「批評」とは文学作品や映画、社会的出来事など様々なものについて良し悪しやその内容を論じるものだが、実際のジャンルとしての批評はそこまで単純ではない。批評家・東浩紀は「批評」を以下のように語っている。
批評とはなにか。それは本来はたいしてむずかしい問いではない。手元の辞書によれば、それは「物事の是非・善悪・正邪などを指摘して、自分の評価を述べること」を意味する言葉にすぎない(『大辞泉』第二版)。この意味での「批評」は、いまもむかしも世の中に溢れている。もし批評がそれだけのものなのであれば、そこにはなにも謎はない。批評が、見知らぬ作品をどう読むべきか、新しい事件をどう理解すべきかといった課題に対し、新しい情報を提供したり判断の指針を示したりする行為なのであれば、批評家がその対価を得るのは当然である。実際、よくテレビに出ている「評論家」がそのような行為を実践している。
けれども、文学好きの読者であればご存じのように、日本には、そのような定義に必ずしも収まりきらない、にもかかわらず「批評」と呼ばれる別のタイプの文章の伝統が存在する。新しい情報の提供があるわけでもなく、新しい価値判断があるわけでもない、ましてや学問的研究の積み重ねがあるわけでもない、なにか特定の題材を設定しては、それについてただひたすらに思考を展開し、そしてこれといった結論もなく終わる、奇妙に思弁的な散文の伝統があるのだ。それはおそらくは、日本以外では哲学的エッセイと呼ばれ、哲学に分類されるタイプの文章である。けれども日本では、同じタイプの文章が、小林秀雄以降、なぜか「批評」と呼ばれ、文学のなかに分類されてきた。ぼくがここで「批評」という言葉で考えたいのは、その散文の伝統についてである。
その伝統はけっして周縁的な存在ではない。むしろそれは、一時は日本文学の中心を占めるものだったと言える。戦後のある時期、おそらくは江藤淳が『成熟と喪失』で「成熟」について語り、吉本隆明が『共同幻想論』で「大衆」について語ったあたりで、批評の核心は、具体的な作品評価にではなく、むしろそれを支える思弁の力にあると見なされるという、一種の価値転倒が起きた。江藤も吉本も、その転倒を梃子に大きな影響力を獲得し、時代を代表する思想家と見なされた批評家である。
東浩紀.批評という病.ゲンロン4.2016年,株式会社ゲンロン
要約すると、まず第一に辞書的な意味での「批評」は「対象について良し悪しを論じるもの」で、その主体は批評される「対象」の側にある。それに対し第二に日本固有の伝統的なタイプの文章として、「特定の題材(対象)を設定してそれについて思考」する、「批評の思考」側に主体があるタイプの「批評」も存在すると語られている。
便宜的にここでは前者を「評論的批評」、後者を「文学的批評」と呼ぶことにする。
そして、この「評論的批評」と「文学的批評」の間を考えることは、優れたデザインにつながるのではないだろうかと、僕は思っているのだ。
「評論的批評」「文学的批評」2種の批評について特徴を書き出すとしたら以下のようになる。
・批評する対象が存在する
・対象の是非・善悪・正邪などを指摘して、自分の評価を述べる
・主体は批評される「対象」の側
・批評する対象が存在する
・対象についてひたすらに思考を展開
・核心は、具体的な作品評価にではなく、むしろそれを支える思弁の力にある
これらの特徴はデザインとも共通する。
・デザインにも対象が存在する
・その是非・善悪・正邪などを自分なりに評価するプロセスが必要である
・しかし、その是非・善悪・正邪といった評価をそのまま出しても良いデザインにはならない
・思考を展開し、そこから生まれる思弁の力がデザインの核心になる
ただし、大事なのはここなのだが、デザインの場合は最後にその対象に必ず帰ってこなければならない。
独自の思考を展開し、デザインの核心が見つかったとしても、それが対象となる商品やサービスを無視してしまっていては、ただの装飾に成り下がる。必ず最後は対象に戻り、思考の核心と対象の核心が一致していなければならないのだ。
「評論的批評」のようにただ対象の良し悪しを評論するだけでは足りず、かと言って「文学的批評」のように対象から完全に自由になることもできない。
そう考えると、デザインとは「評論的批評」と「評論的批評」の間にあると言えるのではないだろうか。
デザインには常に何かしら対象が存在する。会社や商品、まち、イベント……、何かしらの対象がありそれをデザインによって人に伝えていく。また、デザインを考えるにはその対象を深く理解することが重要だ。その対象の良い点・悪い点、また詳しい内容をよく知り、それを元にデザインを考えていく。そして、ただ良い点・悪い点を表現するだけ、対象をそのまま表すだけでは、良いデザインにはならない。対象から読み取ったものを用い、そこでさらに独自の思考を重ね価値を生み出して初めて良いデザインとなるのである。
例えばとあるお菓子のパッケージをデザインするとしよう。「甘くて」「食べやすくて」「色も綺麗」と、その商品の良いところだけを並べても、デザインにはならない。「甘くて」「食べやすくて」「色も綺麗」といった特徴はもちろん、「生産地や生産方法」「お菓子が考案された会議の様子」など商品にまつわるあらゆることを知り、それらについて思考する中で「甘い」でも「食べやすい」でも「色が綺麗」でもない別の価値を見つけ生み出すことで、優れたデザインとなるのだ。
批評も「対象があり」「その良し悪し等を論じ」、そして東浩紀によれば「対象から論じられる思考の側に主体が生まれる」ものである。その成り立ちにはデザインとの共通点が見出せる。
ここまで「批評」と「デザイン」の類似性について語ってきたが、では実際には「批評」のどんな手つきが、具体的どんな「デザイン」から読み取れるのだろう?いくつかの例を挙げてみたい。
前述の東浩紀は別のテキストでは批評について以下のように語っている。
しかし、さっきもいったように、批評とはつながりえないはずのものをつなげることですから、そういうつながりを思いつくためには頭のなかを散らかしておくことが必要で、整理整頓してしまってはだめなんです。
東浩紀.テーマパーク化する地球.第一版,株式会社ゲンロン,2019年
一見全く別のものをつなぐことで「批評」が立ち上がる例として速水健朗の『ラーメンと愛国(講談社現代新書、2011年)』を挙げてみよう。この本は「ラーメン」と「愛国」という関係ない2つを繋げて「批評」を作り出している。鰹や煮干しといった和風だしを使い、店員は作務衣風の制服をまとい、「武蔵」「一風堂」のような日本的な店名、「和」をイメージした内装など、元々中国由来だったラーメンが日本化していく過程でナショナリズムと結びついたのではないかというラーメン「批評」が行われている。つながりえない2つのものが思考を重ねる中で結びつき批評が生まれている。
「つながりえないはずのものをつな」ぐ、という「手つき」は非常にデザイン的である。
具体例としては、原研哉の手がけた無印良品のポスターが挙げられる。このポスターには世界各地の地平線の写真が使われている。「無印良品」と「地平線」、一見何も関係がないように見える。無印良品には「無駄を省いていくことによって、豪華なものよりもっと素敵に見える。」という考え方があり、そこから原研哉は「空っぽ」=エンプティというアイデアを出したのだと言う。そして「空っぽ」の情報を出すためのビジュアルとして「地平線」と一人の人間だけが写ったポスターが生み出されたのだ。これはまさに「無印良品」=「空っぽ」=「地平線」という「つながりえないはずのものをつな」ぐことで生まれた、批評的なデザインと言えるだろう。
参考記事:https://www.muji.com/jp/flagship/huaihai755/archive/hara.html
2000年代初期に評論家の三浦展が『ファスト風土化する日本(洋泉社 新書y、2004年)』において「ファスト風土化」という言葉を生み出した。個人店が軒並み廃業しチェーン店だけが残った郊外の景色を「ファスト風土」と呼び批判したのだ。この言葉はのちに郊外論における重要なタームとして定着し、都市に関する批評の様々なシーンで使われるようになる。このように新しい言葉を作り意味を定着させ、対象を価値づける(この例ではネガティブな価値づけではあるが)ことも批評においては散見される手法である。
ファスト風土とはもちろん「ファーストフード」が語源であり、その安くジャンクで大量消費的イメージを引き継ぐことで、郊外の風景に批判的なイメージを植え付けることに成功している。
参考記事:https://ja.wikipedia.org/wiki/ファスト風土化
デザインにおいても言葉を作ることで価値を転換している事例がある。梅原真が手がけた「しまんと地栗」だ。高知で売れていなかったしまんとの栗に「地」をつけて「しまんと地栗」としてパッケージにしたことで売れるようになったという商品。大して手をかけられず勝手に育っていた栗を見て「無農薬無化学肥料」なことに目をつけた梅原真は、安心安全な栗として売り出すために「地栗」という言葉を生み出した。地酒や地魚など「地」がつく美味しそうな言葉が元々存在し、それを利用することで、「地栗」と言う言葉をつくりブランドをデザインした。地方で採れる産品が「無農薬無化学肥料」であることに気づき、それを梃子に言葉の力でデザインする「手つき」からは批評的な手つきが感じられる。
濱野智史は『アーキテクチャの生態系: 情報環境はいかに設計されてきたか(NTT出版、2008年)』の中で2000年代に次々生まれては消えていく情報サービス(Google、Youtube、2ちゃんねる、mixi、ニコニコ動画など)の実態を伝えるため、ITサービスに対して「生態系」という別の概念をメタファーとして重ね批評した。2ちゃんねるの文化からニコニコ動画が生まれ、そこからニコ生が生まれる。ブログがMicro blog(Twitter)に進化する。情報サービスの変化の過程はさながら生態系の進化のようである。
デザインにおいて、メタファーとして別の概念と重ねることで対象についての理解を促した例としては、深澤直人がデザインした無印良品のCDプレイヤーがあげられる。壁にかけて使う一風変わったこのCDプレイヤー。紐を引くとCDが回る様子は換気扇のプロペラのようであり、そこから流れ出す音は換気扇が空気を出し入れするようでもある。紐を引くこと(動作)、回ること(過程)、音・風が流れること(結果)。壁掛けCDプレイヤーという風変わりなプロダクトの動作-過程-結果が、換気扇のメタファーによって自然と受け入れられるようにデザインされているのである。
参考記事:https://www.muji.net/lab/mujiarchive/101111.html
かのように、「批評」の「手つき」を知ることはデザインにつながるのではないか?
改めて言うが、僕は読書が「○○の役に立つ」と言う考えは好まない。けれども現実に僕がデザインの良し悪しを考える時に、批評を読んだ体験が影響していることは間違いない。
ちなみにそれを特に意識する場面は、会社で後輩のデザインやコンセプトをレビューしているときにある。人のデザインをレビューするとはまさに「良し悪しを判断」するし、それが「独自の高次な何かにつながっているか」を批評的に読み解いている。
「批評」を読んでもデザインは上手くならない。けれども「批評」を読んでいたらいつの間にかデザインに対する思考の基礎体力が上がっていたのである。「○○の役に立つ」ことを目的とした読書は嫌いだが、下心なしに読んでいた本が、デザインの思考を豊かにし、結果的に少しだけ役に立ってしまった。そう考えればそんなに悪くはないのかもしれない。
ここから先、具体的な話は少なくなり、精神論や姿勢の話になってくる。抽象的で無根拠な書き方になるのは、まだ自分の中でも消化できていないからだと思う。
当然ながら「批評」と「デザイン」には異なる点もたくさんある。しかしデザイナーとして、異なる点の中にも見習うべきことはあると感じている。
例えば再々度東浩紀から引用してみよう。
いいかえれば、哲学者や批評家というのは、たんにおもしろい文章=商品を書けば済む仕事ではないのです。ここがフィクションの世界と根本的にちがうところです。おそらく、フィクションを書くことははるかに商品開発に近い経験でしょう。じっさい、多くの読者=消費者はたえず新しいフィクション=商品を追い求めています。
ぺつの観点でいえば、これは固有名の問題と関係しています。フィクション=商品の世界では、内容のおもしろさだけが重要なのであって、それがだれによって作られたものかはほとんどの消費者は気にしていません。対して、批評や哲学の世界はまったくルールが異なる。そこにはデリダのいう「署名の効果」があり、要するに、いうひとによって言葉がまったくちがったふうに聞かれてしまうという現実がある。ぼくの本がどう読まれるか、そのコンテクストをぼく自身の生が決めるという厄介な構造があるわけです。
東浩紀.テーマパーク化する地球.第一版,株式会社ゲンロン,2019年
ここでは以下のように書かれている。
・フィクションと違って批評は商品開発ではない。
・内容こそが大事なフィクションと違って批評は誰によって書かれ(語られ)たかが重要である。
どちらの点においても一般的にデザインはフィクションに近いものとして理解されているし、実社会においても多くの場合そのように機能している。商品開発はまさにデザインが要請される代表的な場面だろう。商品そのもののデザイン、パッケージのデザイン、販促物のデザイン等々。また、デザインは多くの場合匿名であることが求められる。特に現代ではデザイナーの主張が強いものは忌避される傾向にあり、多くの場面でアノニマスで機能に徹するデザインが好まれる。しかしここで、僕はあえて商品ではないデザインや作り手の手垢を感じるようなデザインも大切だと言ってみたい。あまりにもデザインが商業性と分かちがたい関係を結んでいる現代のデザインにおいて、そこから離れ、商品としては違和のあるデザインにも価値があるのではないかと言いたいのだ。とはいえアートポスターを賛美したいわけでもない。あくまで人と人との間で価値を生むものとしてのデザイン。例えば生産者とデザイナーと消費者が1対1対1で関係を作れるようなデザインの形はないだろうか。現段階ではうまく言葉にできないが、1対マスのデザインだけではなく、1対1対1で機能するデザインについても考えていきたいと僕は思うのである。
似たような論点について、批評家の佐々木敦は、批評家(評論家)について以下のようにを書いている。
話が少し脇道に逸れるが、私がよく思うのは、加藤に限らず、日本の(文芸)評論家にはマーケティングという観点が著しく欠けている人が多いということである。こんにちの芸術文化には「作品」であると同時に「商品」としての側面があるわけだが、値段の付けられた芸術/文化的な「作品=商品」が流通し売買されるという素朴な意味での資本主義的な回路への考察が、意識的なのか無意識的なのかは知らないが、大きく欠落している論者が少なくない。資本主義的な体制にアンチの立場を標榜している人でさえ(むしろそれゆえに)そうであって、単純に「売るため」とか「売れるから」と考えれば済むことにどうにかして深遠な理由を見出そうとする一種の潔癖さは、態度としては美しいし、ある意味で正しくはあっても、敢えて言えば時間と労力(思考力)の無駄ではないかと思えてしまう。もちろん一見そうは思えないような事象の背後に重要な問題を明視するのが批評の仕事ではある。だがしかし、マーケティング、すなわち売らんかなという戦略の分析抜きに現在の芸術文化は批評出来ないと私は思っている。むろん、良くも悪くも、という但し書きを付してのことではあるが。
佐々木敦.成熟の喪失 庵野秀明と“父”の崩壊.第一版,朝日新書,2024年
佐々木敦は文芸批評家が作品を批評する際、マーケティングという観点が欠けているという批判をしている。態度としては美しいが、文芸作品はあくまで商品なのだからそれについて批評するならばそこにある「売らんかな」という意図を無視するわけにはいかないだろうと。全くその通りだと思いつつ、デザイナーに関して言えば逆のことも言えるのではないだろうか。売れるかどうか、機能するかどうかばかりが評価の指標にされるデザインにおいて、あえて「それは美しいか?」を問うていかなければデザイナーの存在価値はなくなってしまうのではないだろうか?ここで言う「美しい」とは美醜だけのことではない。「それは文化になりうるか」「それは倫理観を提示できているか」「それは正義たりえるか」など様々な観点を「美しいか?」と言う問いに込めている。
そして最後に、もう一人、批評家西部邁の言葉も引用してみたい。
欧米でクリティック(評論家、批評家)といえば恥じるところのない職業である。この場合の評論とは、知識そのものを批評の俎上に乗せるということだ。先の話とのつながりでいえば、知識全般のディレッタンティ(愛好者)であるがために、ディレッタントと批判されることも恐れず、専門的知識における矮小や浅薄を批判し、それをつうじて知識全体の基底と骨格そしてそれらの全般的な変貌の過程を洞察しようとする、それが評論家である。
西部邁.批評する精神4 評論の意義.第一版,PHP研究所,1993年
デザインは社会の中に存在して初めて価値を持つ。デザインが魅力的に見えるのはあくまで社会の中にそれが存在したときである。美術館に並んだデザインが退屈なのはそれがあるべき場所に置かれていないからだ。パッケージは売り場や食卓の上にで輝くのであってホワイトキューブの中に置かれてもなんだか窮屈に感じてしまう。デザインは社会のしがらみの中に存在し、そのしがらみを、ほどき、ある時は受け入れ、ある時には反発し、その格闘の中で価値を放つのである。ただ、いつでも社会の要請を受け入れれば良いわけはないとも思う。社会はデザインに様々な合理化を求めてくる。その1つが専門分化である。現在のデザインは各ジャンルごとに極めて専門性が高くなり、それぞれが分業化することで合理的に機能を発揮しているのは事実である。しかし前述の西部邁が言うクリティック(評論家、批評家)のように「専門的知識における矮小や浅薄を批判」し「全般的な変貌の過程を洞察」するようなデザインも時に必要なのではないか。
商売性、マーケティング、機能、専門分化、どれも大切なことである。しかし「批評」と「デザイン」を並べてみたときに見えてくる相違点から、あえてデザイナーが見習うべきアティテュードも見えてくる気がするのだ。デザインという仕事が「恥じるところのない職業」であるためにも常にどのような姿勢を持って仕事に向き合うか、たまには考えたいものである。