ローソンのパッケージリニューアルから考える公共

2021年2月6日

少し前に、ローソンのプライベートブランドのパッケージリニューアルが話題になっていた。

その変更は、これまでの「大きい文字・シズル感のある写真」を用いた「わかりやすいデザイン」から、「小さめの文字・イラスト・ベージュ系」でまとめた「統一感のある可愛らしいデザイン」へ、というリニューアルだった。別の言い方をすれば「店頭で目を惹くデザイン」から「持ち帰ったあと家に馴染む、食卓に置いて落ち着くデザイン」への変更だとも言えるだろう。店頭ではプライベートブランド以外にも多くのパッケージが並び、その中で見つけて手に取ってもわなければならないため、自然と主張の強いデザインになってしまう。けれどもそれを自宅に持って帰れば、主張が強すぎてインテリアの調和を乱すアイテムとなってしまう。これまで「店頭」での見え方でデザインされてきたプライベートブランドが、家に置かれた時の見え方を主軸にリデザインされたのである。

余談だが、化粧品でもプチプラと呼ばれる低価格の商品群は、家に置かれる時間が長いものにも関わらず、店頭では厳しい競争にさらされるため、パッケージ自体はシンプルに作られているが、派手なポップや販促物をパッケージに貼り付けることで、店頭で目立つこと/家に馴染むことを両立しているらしい。(最近そういう化粧品売り場に行ってないから状況変わってたりするかもしれないけど)

話は戻ってローソンのプライベートブランド。今回のリニューアルは賛否両方の意見が相当数集まっていたようだ。

批判の意見は一言で言ってしまえば「わかりづらい」ということに集約される。「文字が小さくてすぐに判別できない」「写真がなくなったため遠くから見たときになんの商品かわからない」「一部の商品で日本語よりローマ字が大きく使われていて理解に時間がかかる」などなど。実際にローソンに足を運んで商品を見たところ、確かに遠目でわかりづらかったり近くで見ても理解に時間がかかるものが多かった印象はある。

けれどもそれで一概に今回のリニューアルが失敗だとは思わなかった。これまでのコンビニの「パッと行ってサッと選んで帰る」という場所から、「じっくりと時間をかけてゆったり商品を選ぶ」場所へ変わろうという意図が感じられたし、前述の「持ち帰ったあと家に馴染む、食卓に置いて落ち着くデザイン」というコンセプトと合わせて考えても筋の通ったものがあるように思われる。「従来のサッと選んで買って食べてすぐに捨ててしまう『ファストな消費文化』から、きちんと選んで、じっくり使う『スローで落ち着いた文化』への方向転換」というような企業メッセージがそこには込められているのではないだろうか。コンビニという消費文化の象徴のような場所にとってその方向転換は大きい挑戦だとは思うが、その方向性自体は好ましいものだと感じる。

(正直言えば個人的な好みとしては、新しいパッケージのビジュアルはあまり好きではないのだけれど)このリニューアルの意図や、向かう方向はある程度理解できるものだった。店頭でパッケージを見てそんなことを考えていたのだが後日ネットでこんな記事を見つけた。

ローソンPB新パッケージの「わかりにくすぎる」という問題 
ユニバーサルデザインの専門家に訊く- wezzy|ウェジー
https://wezz-y.com/archives/77514

ユニバーサルデザインの観点から、このパッケージでは障害者やシニア世代が商品を選ぶことができず問題があるのではないかという記事だった。

また、知り合いのデザイナーとSlack上でこのことについて少し意見交換をした際に、そのデザイナーは上記記事とは反対に「ローソンは私企業なんだから、自分たちの判断で顧客層を決めて、最適なデザインを採用して良いはず(全ての人に迎合する必要はない)」ということを言っていた。

この話を言い換えると、ローソンの新しいデザインは多くの人たちにとっては「少しわかりづらいこともあるけれど、ゆっくり見れば理解できる」ものである。けれども一部の障害者やシニア世代にとっては「ゆっくり見ても商品を判別できない」ものだとした場合、「ローソンは私企業として商品を買えない人が一部いたとしても、ターゲットとする顧客ではない」という判断をして良いかどうかという点が問題になる。

自由市場において企業は顧客ターゲットを定めそこに最も届く商品づくりや表現をする自由がある。けれども近年制定された障害者差別解消法においては民間事業者にも障害者への“合理的配慮”を行う“努力義務”が課されている。民間企業には確かに顧客ターゲットを選ぶ自由があるが、合理的な範囲においてユニバーサルなサービスを提供する義務もあるのである。前者は顧客の「趣味嗜好」によって顧客を選別する自由である。つまり青い商品のみを提供することで、赤い商品を「好きで」求める顧客を切り捨てる自由が企業にはあるということだ。しかし後者について、身体的差異によってサービスを受けられない顧客を切り捨てる自由はない。身体的差異があったとしてもサービスが受けられるよう“合理的な範囲で配慮”をする義務はあるのだ。しかしこれはあくまで努力義務であり、どこまで配慮するかは各企業に委ねられているため、企業の規模や体力によってその判断は変わってくる。

規模や体力とは例えばこういうことだ。ビルの2階に賃貸で入っている小さいお店が階段でしか入れないとしても、そのお店が自費でエレベータを設置するのは難しい。エレベーターを設置する費用でお店が立ち行かなくなってしまうのであればそこまでの配慮は求められないということだろう。(しかしエレベーターは設置できなくても、車椅子の人がお店に入りたいと伝えた時にお店の人が可能な範囲で手伝う義務はあるのではないかと、僕個人は思う。この辺りになると議論が分かれるのだろうか。)

企業の規模や体力によって配慮すべき範囲が変わることは、ある程度多くの人から合意が得られると思う。しかし規模・体力とは別に、もう一つ社会的な立ち位置などによっても配慮すべき範囲が変わるのではないか。例えば大学など教育機関には比較的強い配慮の義務が求められている(私立大学は学校法人であり私企業とは違うが)。同様に社会的なインフラとなっている企業にも、普通の企業以上の配慮が求められるのではないかということを僕は思っている。ある種その代表例になるのが、現代社会においてはコンビニなのではないだろうか?例えば、2020年、新型コロナウイルスで緊急事態宣言が出されていた時にも、社会に必要不可欠なサービスとして自粛要請の対象にはならず普段通りの営業を許されてた(感染リスクを負って営業してくれたとも言えるけど)。また日常においても住民票が取得できたり公共サービスを行政から代行してることで集客できてる面もあり「社会から公共的な役割を任されることで、それによってビジネス的なメリットも得てる」と言える。このような観点からコンビニは普通の企業よりは、障害者などに対する“合理的配慮の努力義務”が強くあるように思う。コンビニは現代日本社会においては“公共的”な役割を担うことを大きく期待されているのである。

話は戻ってローソンのパッケージについて、グラフィックデザイナーの大澤さんが以下のようにツイートしていた。

「社会インフラを私企業のコンビニに担わるような歪な社会構造を作り出している政治に対して文句言わないくせに、文句言いやすいコンビニにばっかチクチク言うのあんま大人のやることではないよなあとは思う。私企業にも社会責任あるけど、ユニバーサルデザインは基本的には公共が担うべきものでしょ。」

ここで、コンビニがどこまで顧客を取捨選択して良いかという点からさらに、企業はどこまで“公共”を担うべきかということ論点が出てきた。

日本はこれまで、本来国や自治体や社会が担うべき公共的な福祉の多くを、企業に背負わせてきた。年金・保険の負担や、終身雇用によって国が行うべきセーフティネットの肩代わりをしたり、福祉の決して小さくない部分を企業が担ってきたのである。そのアンバランスさを「社会インフラを私企業のコンビニに担わるような歪な社会」という大澤さんの意見は確かにその通りだと思う。けれども“公共”とはいわゆる公共的な存在である、国、自治体などだけが作るものではないと僕は考える。国や自治体が作るのはあくまで公共の半分で、もう半分は市民や民間が自主的に作り出すものなのではないか。確かに国や自治体には公共をつくり維持する義務がある。しかし公共がそれだけしかなければ、それは公共ではなくただの管理になってしまう。国や自治体が作る公共と、民間が自主的に生み出す公共があるからこそ自由な公共が担保されるのではないだろうか。

官・民が生み出す公共がある程度拮抗することが社会にとって大切だと考えれば、民間の側のコンビニという存在は非常に大きな役割が課せられている。そう考えて改めてローソンのパッケージの話に戻った時、もしも障害者や高齢者の多くにとって買い物そのものが困難になっているのだとしたら、今回のパッケージデザインは考え直すべきとこが多々あるように見えてくるのである。実際にどの程度の人たちがどの程度買い物に支障をきたしているかわからないため本当の意味での判断はできないが、もしも今後様々な人から、買い物そのものが困難だという声が上がった場合は、今一度パッケージの検証が必要になってくるのだと僕は思う。

企業が公共を担うべきということは、大企業だけではなく、中小企業なら中小企業として、さらには一人のデザイナーにだって担うべき公共があると僕は思っている。デザイナーが仕事をする際にだってクライアントに利益をもたらすかどうかとは別に、社会にとってこのデザインがどういう影響を持ち、それがどの程度公共的なのか、を少しだけ考えるべきなのではないかと。以上のように、コンビニのパッケージリデザインの話は、デザインを単純にビジネスに貢献するものと考えるのではなく、その先に社会でどういう意味を持つのかまで考えられるデザイナーになりたいと改めて考えさせられる、そんなトピックだった。

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