METACITY

2021年2月5日

先日、幕張で行われた「METACITY」というプロジェクトのカンファレンス&エキシビジョンを観に行ってきた。
公式サイトによるとコンセプトは「思考実験とプロトタイピングを通してありえる都市の形を探求するリサーチプロジェクト」ということだ。「”META”CITY」は「高次の」都市ではなく「ありえる」都市ということらしい。
METACITY

通っていた高校があり個人的に思い入れのある幕張という場所で、こういう先進的・刺激的なイベントが開催されていること自体とても感慨深いものがあった。本当は2日間とも行きたかったけれど仕事の都合で土曜日だけ参加。

途中ちょっと抜けて休憩しながらも以下の5セッションを拝聴。

  • 基調講演3「文化人類学と現”在”美術からみる「ポストヴィレッジ」そして「メタシティ」
    宇川 直宏 x 奥野 克巳
  • セッション5「都市の生死とは?」
    関野 らん x 高橋 洋介 x 長谷川 愛
  • セッション6「ポストコミュニティ」
    和田 永 x 松本 紹圭
  • セッション7「シティ・アズ・キャンバス」
    SIDE CORE
  • セッション8「超都市」
    松村 宗亮 x 豊田 啓介

どのセッションもタイトルには都市やシティなどの言葉が入っているけれど、実際のトークの内容は都市そのものを論じるというより、その周辺の様々なことについて語るというような内容だった。そこから「ありえる都市」を浮かび上がらせるというのが企画の意図なのかもしれない。

せっかくなので感想を書いておこうと考えた時に、全体を通して印象に残っていることが2つある。

一つは「都市について考えるトークセッションでありながら、都市を『固有の場所に基づくもの』として言及するトークがほとんどなかった」こと。これはもっと具体的な都市の話をしてほしいという批判ではなく、これからの新しい都市について考える時、固有の場所にはほとんど関心を持たれないことに、「やはりそっちの方向が現代的なんだろうな」という感想を持ち、それが印象的だったということだ。

もう一つは「人体が遺伝子などのレベルで科学的に解明されていき、そこから神秘性が失われつつある時代において、宗教が生死の神秘性を扱う役割を担えなくなるということ」こと。人体・生死を科学的な側面からアートに昇華する話をされたセッション5のあとに、僧侶の未来の形について考えるセッション6が続いたことで、「科学の進歩」と「宗教の役割の変化」の関係について印象的な対比を見ることができた。

以下この2つについてダラダラ書いてみる。

 

都市について考えるトークセッションでありながら、
都市を『固有の場所に基づくもの』として
言及するトークがほとんどなかった

このプロジェクトは幕張メッセの30周年行事の一環として行われているらしい。プロジェクトの公式サイトには以下のようなテキストがあり、その目的の一つとして幕張という具体的な場所について何かしらアクションするという意思があることは読み取れる。

このプロジェクトを通して、幕張メッセとともに歩んできた幕張新都心という街のさらなる進化と、
「企業(技術や製品)」と「クリエイター・アーティスト(アイデアや表現)」を結びつける場の創出を目指します。

けれども実際に蓋を開けて「METACITY」についてトークを行なってみたら、固有の場所に基づくものとしての都市の形はほとんど言及がなく、SNS的共同体や、一つのお寺に所属しないフリーランス的な僧侶の姿など、固有の場所を軽やかに飛び越えるような都市論が多く展開されたのである。(1日目のセッションは聞いていないので、もしかしたら1日目はもっと固有の場所と都市の関係が話されていたのかもしれない……1日目は市長も出てたし)

この日の基調講演で宇川直宏さんが「ポストヴィレッジ」としてSNS的共同体を軸に語りはじめたことが象徴的だったと思う。一般論としてSNS的共同体とは、地縁(や血縁)で繋がっていた既存の共同体に対して、興味関心趣味志向で繋がる共同体の形だと考えられる。そもそも固有の土地に対するアンチとして存在しているのがSNS的共同体なのだ。これを軸に基調講演が行われたこと自体が、つまりはMETACITYとは固有の土地からは離れていくものなのだという宣言だったように思えてくる。
宇川直宏さんの対談相手である奥野克巳さんが、狩猟採集民と暮らしてきた体験を通して論じていたことも印象に残る。土地から採れるものを食べる農耕民族に対して、狩猟採集民は固有の土地との関係が根本的に違う。土地を耕し収穫ができる土をつくる農耕はそこにある土地そのものと関係をつくることで生きるが、狩猟はそこの土自体と関係を築くものではない。

基調講演に続くセッションでも「固有の場所に基づく都市、ではない都市(など)」に関するトークが続いた。
高橋 洋介さんからは、死者を弔う形として遺体を微生物を用い分解する力を電力に変える(正確にはちょっと違ったかな)アート作品の紹介があった。この話自体はとても面白かったが、これも「死者が土に帰らない」「死者が土地に眠らない」話だったとも言えるなと感じた

セッション5「都市の生死とは?」は、都市というよりは個人の生死についての話だった。その中で関野らんさんの土地の歴史や形状に基づいて墓地をデザインする話は固有の場所に基づく話ではあったが、共同体と土地の関係というよりは、デザインの手法として土地との関係を論じている面が強かったように思う。

セッション8「超都市」は「フリーランス型の僧侶」と自称する松本紹圭さんと、捨てられた電化製品を楽器に作り変えて演奏する和田永さんのセッション。
「神谷町オープンテラス」の話は神谷町にある光明寺という固有の場所をどうしていくかの話ではあるのだが、固有のお寺を継ぐ住職ではない「フリーランス型の僧侶」と自称する松本さん自身は、やはり固有の場所をいかに軽やかに飛び越えていくかを考えている人だという印象を受けた。各地のお寺をそうじしながら巡礼するという活動も場所に縛られない取り組みとして印象に残っている。
また、和田永さんの捨てられた電化製品を楽器に作り変えるという行為の根本にあるものは、物に宿った魂を再生することなのだと思う。(ちょっと記憶が曖昧なのだけど)確かセッション1でもずっと履いたスニーカーにアウラが宿るみたいな話があったのだけど、トークセッションを通して魂やアウラが宿るのは「モノ」で、「土地」に宿るという話はなかったのだ。「幕張という具体的な場所」をコンセプトの一つにしているトークセッションなのだから、モノだけでなく土地に宿るものの話があって良さそうなものなのだけど、やはりそこは軽やかにスルーされている。

以上のように一日のトークセッションは、SNS的共同体や土地に帰らない死者、住職ではない僧侶の未来の形、もののアウラなど、場所や土地に対する言及を避けるかのように展開された。そして、想像なのだけど、これは企画者や話者が意図したものではなないように思う。2010年代後半に未来の都市を考える場において、都市を「固有の場所に基づくもの」として言及しないことが、現代的な都市論なのだ。そしてそれが自然に表出した結果、このトークセッションの内容がこういう物になったのではないか。それ自体興味深いものである反面、それでも多くの人間は固有の土地からは離れられない現実についても考えてみたいという思いもある。土地に固執しないためには、どこに行っても生きられる強さが必要だ。それは職業的スキルだったりコミュニケーション能力だったり、何かしらの強さが求められる。それは当然誰もが持てるものではなく、むしろどこでも生きられる強さを持たない方がマジョリティなのではないか。自分自身、今仕事ができているのはかなり運よくやれるようになったという意識が強く、これから全く新しい土地に行って今と同じように生きられる自信は全くない。そんな普通の人にとっての固有の具体的な土地に基づいた都市(の未来)論と、今回論じられたような話とを両輪として、より広く射程の長い「METACITY」プロジェクトになっていけば良いなと。

 

人体が遺伝子などのレベルで科学的に解明されていき、
そこから神秘性が失われつつある時代において、
宗教が生死の神秘性を扱う役割を担えなくなる
ということを実感した

もう一つの感想。

セッション5「都市の生死とは?」の高橋 洋介さん、長谷川 愛さんの話はどちらも、人体や生死が遺伝子レベルで説明できるようになった現代の技術をアートに昇華していく事例の紹介だった。例えば高橋さんがキュレーションした「2018年のフランケンシュタイン」展の遺伝子技術でゴッホの左耳を再生するという作品が紹介された。この作品が成り立つのは鑑賞する人のリテラシーとして「現代の遺伝子技術でそのくらいのことは可能なのではないか」と感じられる程度には遺伝子技術に対する知識が広がっているからだろう。そのリテラシーがなければただゴッホの左耳を作ってみましたという妄想作品になってしまい、作品の凄みは無くなってしまう。

またDeathLABの「星座の広場」という遺体を分解する際に発生するメタン生成エネルギーを使ってマンハッタン橋を星座のように光らせるという作品。作品としてはロマンチックな面もあるが、すごく平たく言い換えると死体をエネルギーに変えるとも言える。エネルギーに変える=役立たせると言う宗教性や神秘性のかけらもない話である。このような死や人体をアートにできる、つまり死や人体に対して神秘的宗教的側面ではなく科学的側面をアートにし、それが受け入れられるリテラシーが一般に広がっている時代において、宗教はどうなるのだろうと言うことを感じた。

その後セッション6で登壇した僧侶の松本 紹圭さん。松本さんは「寺の境内を活かしたオープンスペース『神谷町オープンテラス』」や「いろいろなお寺の境内を勝手に掃除する活動」など既存のお坊さんとはちょっと違う活動をされていると言う。そもそも松本さん自身MBAを取得しているなど普通のお坊さん像からは大きくかけ離れている。「人間の死を扱う宗教」と言う既存の宗教とは違う価値を提示されているなと思った。これ自体はとても価値のあるものだと思った反面、宗教の価値がこのようにアップデートされる裏にはセッション5で話されたような「死や人体から科学によって神秘性宗教性が漂白された現代」と言うバックボーンがあるのだとも思った。死や人体が科学で解明されればされるほど神秘性や宗教性は無くなっていく。それは宗教の役割にも影響を与えるだろうと言う当然の話が、このセッション5、6の流れでわかりやすく提示されていた。

せっかく都市をテーマにしたイベントなのでこの死と宗教の話を、少し無理矢理にでも都市の話につなげてみたいと思う。

葬式などの死の宗教的儀式は、残された生きる人がその悲しみやショックを癒すための儀式である。けれども残された人が宗教儀式に神秘性を感じられなくなればなるほど、宗教以外で死の悲しみやショックから立ち直るものが必要になるだろう。それはもしかしたらネット上の何かなのかもしれない。けれどもそれだけでは足りないようにも思う。やはり人の死という現実的な喪失には、現実的な場所で何かしらの癒しが必要なのではないかと思う。それは今都市の中にある既存の何かの場所が代替できるのか、それとも新しい何かの場所を作る必要があるのか。もしもそういう場所がなければ死の悲しみにつけ入る良くないもの(怪しいコミュニティビジネスなど?)が生まれてくるかもしれない。そうではなく、宗教に変わって死と向き合うための場所を考えることは、近い未来において、公共的に都市を考える時の一つの課題なのかもしれない。

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今回のトークセッションからこんなことを考えた。特に前者の「都市を『固有の場所に基づくもの』として言及しない」という話は、「固有の場所があることの強さ」や、「デザイナーとして当事者性をどう考えるか」など普段自分が興味を持っていることにもつながるものとして、貴重な話を聞けたように思う。

METACITYプロジェクトは今後も継続するらしい。都市について考えると言うことは、今回のようなイベントに加えて、日常的な継続性も重要だと思うので、今後も継続するというMETACITYを楽しみにしたいと思う。

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